天皇を巡る帝国憲法と現憲法の規定。両者の間には、
決定的な断絶があり、革命的な転換があった。
―というのが、左派にも右派にも共通した認識だろう。
前者は「だから護憲」、後者は「だから改憲」という主張に繋がる。両者に共通する認識の源流を遡ると、
憲法学者の宮澤俊義(みやざわとしよし)に行き当たる。
その宮澤と真正面から対立したのが、法哲学者の尾高朝雄(おだかともお)。
両者の対立は「ノモス主権論争」として知られる。
その論争に関わる尾高の著書『国民主権と天皇制』(昭和29年刊)がこの度、
講談社学術文庫の1冊として再刊された。憲法学者で東京大学法学部教授の石川健治氏の近年の
“尾高再評価論”の影響だろうか
(同文庫の解説も同氏が執筆されている)。
喜ばしい。
同書から一節のみを紹介しておこう。
「日本の伝統によれば、天皇は『常に正しい統治の理念』を具象化して来られた。
その天皇の立場から一切の現実政治上のキョウ雑物を除き去ったものが、
『象徴としての天皇』である。
象徴としての天皇は、目に見えぬ国民全体の、目に見える形として、
内閣総理大臣や最高裁判所の長官を任命し、改正された憲法や法律や
政令や条約を公布せられる。
それによって、多数の決めたことが、
国民全体の行為として意味づけられるのである。
かくて、象徴としての天皇の行為は、無意味な形式ではなくして、
国民主権主義の理念と意味とに満ち満ちた最も重要な国事となる。
それが、新憲法における国民主権と天皇制との真の調和である」―現憲法の「天皇」条項を巡る戦後的通念を覆す、
半世紀以上も前の問題提起。令和の国民はこれをどう受け止めるか。
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